【tdr0081】ウォルト・ディズニーの生涯~彼が放った最期の言葉~
1901年12月5日、イリノイ州シカゴにて鉄道員「イライアス・ディズニー」と、その妻「フローラ」の間に第4子となる男の子が誕生しました。男の子の名は、洗礼を行った牧師「ウォルター・パー」から名を貰い、「ウォルター・イライアス・ディズニー」と名付けられました。そう、後に名を馳せることになる「ウォルト・ディズニー」誕生の瞬間です。
幼少時のウォルトは絵を描くことが好きで、絵を描くことへの興味や向上心から、カンザスシティーへ引っ越した1911年を機に「絵画教室」に通うようになります。
そして1923年、大人になったウォルトは「赤十字救急部隊」や「広告会社」勤務の経験を経てカリフォルニアへと移住し、兄であるロイ・O・ディズニーと共に「ウォルト・ディズニー・カンパニー」を設立しました。
1937年には様々な困難から紆余曲折しながらも、世界初の長編カラーアニメーション「白雪姫」を公開。スタンディングオベーションを受けるほどの大成功を収め、ウォルトは少しずつ自分の夢を叶えていったのでした。
それから長きに渡って多くの作品を手掛け、夢の国をつくり、世界の人々に夢と希望を与え続けてきたウォルトでしたが、1966年、彼を病魔が襲います。首の神経を圧迫するような痛みから、過去に痛めた古傷の影響かと検査入院したところ、肺がんを患っていたことが発覚したのです。このときすでに64歳、闘病生活は体力的にも辛いものであり、徐々に体はやせ細っていきました。
そんな辛い闘病の最中、彼は一度だけスタジオを訪れたことがあります。顔はやつれ、血色の悪い姿を見た社員たちは壮絶な闘病生活を察しました。
そして病院に戻る時間となり、スタジオを立ち去る際に彼は「Good bye」と社員たちに別れを告げました。このとき、社員たちは「もう、ウォルトに会うことはないのだろう」と確信したそうです。なぜなら、ウォルトの帰り際の挨拶は「See you」と決まっていたからです。「さよなら」と「またね」とでは随分違いますよね。このとき、ウォルトはすでに自身の命が間もないことを認識していたのでしょう。
そして治療の力も及ばず、1966年12月15日、彼は静かに息を引き取ることとなりました。
それから約1年後、ウォルトの遺作「ジャングル・ブック」を公開。ウォルトらしさがあふれる作品に、社員たちは当時の気持ちを振り返って「まるでウォルトから届いたクリスマス・プレゼントのようだった」と語っています。
死してなお、残された作品が夢や希望を与え続けているわけですね。